『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)を読みました。
先日から読書しまくってる中での一冊。たしか東畑開人つながり。
文庫本で本文が400ページ超えの哲学ジャンルの本で、たぶんフツーの哲学書よりわかりやすく書かれてるんだろうけど、もう基本的な集中力が低レベルになりつつあるオツムには読み進めるのがつらくて何度もやめようかと思い、半分くらい読んだところでとりあえず結論見てから考えようと最後の章を読んでると、
なぜ結論だけを読むことはできないか?
と見透かしたようにピシャリ。通読しないと結論の意味がないらしい。
一方、amazonで「哲学・思想の論文・評論・講演集の売れ筋」ベストセラー1位だったり、各種レビューやブログでどれを読んでも「今年一番」とか「考え方が変わる」などと大絶賛なのでガムを噛んで脳にムチ打ちながら休憩を多分に挟みつつ3日かけて読了。
で、読んで思ったのは、
と。
11年前に早期退職したのは「労働の奴隷」が嫌で暇になりたくて辞めたわけで。
退職後一度も賃金労働せず、楽器とか英語学習、音源収集、自転車での遠出、リサイクルショップ巡り、DIYもどきなど瑣末な気晴らしで退屈してないし、たまに天気のいい朝に「今日は何しようかなー」などとぼんやり思う(そしてたいしたことはしない)時に多幸感すら覚える。「安定と均整」。
むしろカミさん関係の用事や法事などやらなきゃいけないことがあるとストレスを感じるので、やっぱ退屈が好きなんだなーと。
だから読んでてつらかったのかもしれない。自分の退屈を疑問視してないから。企業やメディア主導の「消費社会」もほぼ無縁。社会的には退屈を背景とした看過できない事象が発生することもあるのだろうけど。
きっと若くてありあまるエネルギーの持って行き場のない人や、「なんとなく退屈」にモヤモヤしてる人、「消費社会」にとらわれてる人などは気づきを得やすいのかもしれない。
自分は恵まれているのかもしれないと感じつつ、先日の反芻思考はふいに空いたココロのスペース(≒退屈)への反応(退屈の第三形式→第一形式)だったのかもしれない。考えてもしょうがないことについての終わりのない思考の消費の無限ループみたいな。その時期はまさに<とらわれ>ていたし。
また、この本を読むきっかけが、これから老いが進んでやりたいことが思うようにできなくなると虚しさを感じるだろうと思ったからということを考えると、あながち無関係とは言えない。
その時、自分は退屈とうまくつきあえてるだろうかと思う今日この頃。